大芥子小芥子

はいーのハイのハイ

よろしく恩讐

インターネットで行き当たる日本語は随分とおかしなものが多い。個人の発したこなれない表現等を取り沙汰するつもりはなく、専ら映像ニュース原稿や画面の見出しに、仰天ものの誤用や誤謬が多いことに目を瞠り日常茶飯となればメディアに触れることがいたたまれない、ということになり、それもそのうち自分の狭量こそが問題かという倒錯が常態、という有様。そのような放送事故なみの「阿呆」な日本語でも、それがとりわけ訂正されず看過され続ける場合、その果てには、受け手がそれを「放送されている」よって模範の表現として意識的・無意識的に模倣、運用し、それがある程度の数となることで、定着していくというわけだ。こんな嘆かわしい日本語界で、頓馬な日本語、恥ずかしい表現を記録しなければと思いつつはや何ヶ月。

そこで、思い立ったが吉日、まず今日は、上記の企てに関連しつつ、少し外れるか、という題材、むしろ雑な見出し、欠陥コピー、を解説添削したい。近頃気になり考え続けているのはこちら。

  • 「生ぬるい溺愛」

これは現在進行中すすきの頭部切断事件の報道の中の一つ、テレビ 朝日の、容疑者(瑠那)の祖父、修の父にあたる人物が取材に応えた際の発言を要約した回の報道画面の見出しなのだが、これ、「生ぬる」いのは、指摘されている田村親が子に為した「溺愛」ではない。寧ろその「溺愛」レベルは、「もうひどいもひどい」とおじいさん自身がその遺憾をその場でも苦しみつつ表現せざるを得なくなる程の、つまり「度しがたい」もの、であるという。生ぬるかった、のはそこで端折られているものの、しかるべき「しつけ」であり、さとし導くことを専ら回避した親の態度、つまり必要最低限の社会性を欠くまま殺人を敢行する子を容認のみならず積極的に支援した、倒錯を矯正出来ない親が築いた子との関係である。よって、生ぬるい溺愛、となると、朦朧と何かは伝わるものの、事実からかけ離れる一歩手前の誤謬は既にはらんでおり、報道の見出しとしては、恥ずかしい至らなさ。すくなくとも「常軌を逸した溺愛・生ぬるいしつけ」が前触れとしてあった、今日の事件なのだが、しかし、この子供、といっても二九歳だよ。しつけ、とか溺愛とかいう話題に集中するような年齢では、ないのだが。