大芥子小芥子

はいーのハイのハイ

自己実現としての殺人 青葉被告を巡るあれこれ

私の目下関心事は、専ら京都アニメーション放火殺人事件裁判の行方なのだが、現在の時点までで、考えたことを以下羅列:

  • 裁判前までに既に大々的に流布してしまっていた青葉被告の「母親以外総自死家系」は、事実ではなかったのか(そもそも出元は日陰の声‥かデイリー新潮か?)訂正はしないのか?)
  • コンビニ強盗の出所後の医療、行政、福祉の連携プレイが少しでも行われていたらここまで酷いことにはならなかった筈では
  • 青葉被告は、自分が、アニメ等の製作側に入りたい、そこで身を立てたい、という裁判で述べていたような動機によって行動していたのでは実はなく、京都アニメーション(社が世に提示してきた作品郡)のような世界の中に住みたい、という非現実的な願いが行動の動機になっていたことを、自分では知っていたのか
  • そのアニメ内の夢の世界は、自分の苦しみや欲望が自動的に癒やされ充たされるユートピアで、その楽園内へ入り込むには「小説」を書けば、それが自動的アクセスキーワード獲得方法なり、それによって、自分も楽園住人は勿論そこの主になる(女性監督との縁組によって)、というような思考回路で
  • 小説を一度ならず書いたにも関わらず、その後「ひらけごま」の展開がなかったことで、ユートピアから残酷に翻弄の果て拒否されたと感じ、その展開に衝撃をうけるが、自分の錯乱した思考回路には思い至らず、未曾有の凄惨な大量殺戮を敢行する。
  • しかし、例えば百歩譲って彼の作品が当選或いは公に登用され、世に出ることになったとしても、アニメの世界の中に住むのとは永遠に異なる、ただの現実が続くだけだから、また別の形の「裏切り」の被害者に自分があったとしいて、そこに憤慨して、またどこかで集団殺人を志したり、敢行していたりしていないとは誰にも云えない
  • この願い、拒否、絶望、怒り、とは、(月並みながら)被告の母親との幼少期よりの関係の、更に拡大された、しかしれっきとした反復なのでは。
  • 母親の存在は、被告の精神には裏切りとして映じ、定着し、それが払拭されたり、変化や克服されるような機会がないまま、疎遠になった(母親から支援を拒否されて以来)
  • 裁判では触れられていないが、青葉被告は過去の服役中に、既に統合失調症として診断を受けつつ、出所後然るべき服薬も治療も中断されており、それが招いた心身耗弱であり、幻覚性障害を患っていたのは否定できない事件の要因となっている筈

 

これより毎日

特別お題「わたしがブログを書く理由

ここ以外数点ブログを運営してはいて、それはいろいろとあり、それらは総じて手入れされていないのだが、はてなが一番ローキーで気楽なのかな。

ここ以外

http://supnsugar.blogspot.com ユーチューブ googleの日に日に厳重さの増すアカウントサインイン承認に辟易し、絶賛放置プレイ中

ざらざら|note

https://marioluigi.theletter.jp/ 精力的に作るだけ作ってみたニュースレターアカウントだが、まだ始まってもいない。

日本語のサイトで、リンクツリーのような、複数(多数)のリンクを総てに集めて貼るリンクサイトみたいなものは、なんだろう?無い筈はないのに、いままで知らない。どなたか、これをお読みで心当たりのある方、ご教示乞う。

 

 

 

携帯執筆人口とは

特別お題「わたしがブログを書く理由

以前ここでも述べた気がするが、携帯電話でブログ原稿を書き、そのまま発表する層は実は今日のネット界では大多数を占めるのか、という疑問或いは仮説のようなものを持ち出してからもうしばらくになるが、その仮説が立証も覆されることもないまま、私自身がその携帯文書入力へいま現に参入しており、例えば今書いているこれは、覚束ないな柄、携帯で書いているのだが、書いている間、無呼吸で泳ぐような無茶さがある。

 

上記段落は携帯書きしてから保存し、いまラップトップでこれを、息をする余裕を持って眺め、書いている。

これを書き出した際のテーマは、どこのブログに何を書くのが適切なのか、ということを考えあぐねている間に一年も二年も経ってしまうよという話で、これ以上の時間の損失を防げ、ということで、まず、至るか至らぬかを考えずに書いて人目に晒してしまうことに。

私がほうぼうへ書き散らし、かつまだ存続しているものの中で、一番おもしろいのは実は読書メーターだな、ということに気づいた。

近頃 あなたたちは 只々 「剥キ愛」 「寄り添い」 「紐付け)てばかりいる

最近気にかかりだした、おそらくは「はやりことば」のような表現なのだろうが、見出しに挙げた三語。

向き合うとはかつて云われた表現だったら、「取り組む」だったのでは。

寄り添うとは、「尊重する」?

紐付けるは、単純に関連付ける、つなげるというような意味なんだろうが?

それにしても、なんでそんな至らない表現を使うのか、というだけではなく、その言葉ばかり使うのか。

よろしく恩讐

インターネットで行き当たる日本語は随分とおかしなものが多い。個人の発したこなれない表現等を取り沙汰するつもりはなく、専ら映像ニュース原稿や画面の見出しに、仰天ものの誤用や誤謬が多いことに目を瞠り日常茶飯となればメディアに触れることがいたたまれない、ということになり、それもそのうち自分の狭量こそが問題かという倒錯が常態、という有様。そのような放送事故なみの「阿呆」な日本語でも、それがとりわけ訂正されず看過され続ける場合、その果てには、受け手がそれを「放送されている」よって模範の表現として意識的・無意識的に模倣、運用し、それがある程度の数となることで、定着していくというわけだ。こんな嘆かわしい日本語界で、頓馬な日本語、恥ずかしい表現を記録しなければと思いつつはや何ヶ月。

そこで、思い立ったが吉日、まず今日は、上記の企てに関連しつつ、少し外れるか、という題材、むしろ雑な見出し、欠陥コピー、を解説添削したい。近頃気になり考え続けているのはこちら。

  • 「生ぬるい溺愛」

これは現在進行中すすきの頭部切断事件の報道の中の一つ、テレビ 朝日の、容疑者(瑠那)の祖父、修の父にあたる人物が取材に応えた際の発言を要約した回の報道画面の見出しなのだが、これ、「生ぬる」いのは、指摘されている田村親が子に為した「溺愛」ではない。寧ろその「溺愛」レベルは、「もうひどいもひどい」とおじいさん自身がその遺憾をその場でも苦しみつつ表現せざるを得なくなる程の、つまり「度しがたい」もの、であるという。生ぬるかった、のはそこで端折られているものの、しかるべき「しつけ」であり、さとし導くことを専ら回避した親の態度、つまり必要最低限の社会性を欠くまま殺人を敢行する子を容認のみならず積極的に支援した、倒錯を矯正出来ない親が築いた子との関係である。よって、生ぬるい溺愛、となると、朦朧と何かは伝わるものの、事実からかけ離れる一歩手前の誤謬は既にはらんでおり、報道の見出しとしては、恥ずかしい至らなさ。すくなくとも「常軌を逸した溺愛・生ぬるいしつけ」が前触れとしてあった、今日の事件なのだが、しかし、この子供、といっても二九歳だよ。しつけ、とか溺愛とかいう話題に集中するような年齢では、ないのだが。

過去の過ち と 禁じられた’いいね’

さて、前々回で仄めかしたように、これからここをツイッターの代わり(と云ってもそもそもそれほどツィッターに執心したり専念したことがあったわけではないが、一応目安までに保持したもの が)に使って毎日何らかを記すか。まずは、これの前の日付は年明け間もない頃、投稿の果て、そのブログエントリーに、完全な間違いから自分の’スター’を付けてしまったのだが、それを取り除くのがどうするのか分からないまま、今日に至る。これは、何。

 

そして、ツィッターに至っては、あの’いいね’のハートもの、つけてもつけても拒否されるかのようにつかないことがしばしば。これ、いいね濫用の果て私は罰されてでもいるのか、という疑心にかられ、とりあえず連続で強行突破風な操作は控えるのがよろしい、として、何日も後充分熱りは冷めたかという頃合いを見計らって件のいいねを再び試みるものの。駄目なものは駄目らしく、その時赤いハートがついても後確認する時までには、やはりハートは剥奪されている。しかも、私が後生悲願のいいねという思いがあるツイートほど、これが起こりがちなのは一体どういうツイート霊にでも憑かれているのだ私は、と考えてしまう。たとえいいねがあってもなくても、命に別状のあるじゃなし、と思いきや、先日その考えすら改めることを考えさせられるツイートに出くわす。なんでもそのツイッターの主は、「いいねなしのリツイートは好意とは取れないので、こころして下さい」という脅しめいたメッセージを伝えているらしく、私はすかさずこの人のいいねやRTはもとより、フォローをやめようかと思うも、それすらどんな怨恨も買いかねないので、とりあえず無為のままそっとその場(ページ)を離れた。

 

ちなみに、上記の後、スターの除去方法という箇所を一応確認してからいざ、問題の過失により自ら自分のエントリーつけてしまったスターの除去作業に着手するも、スターは消えるどころか更に増えてしまった。しかも消し方はいよいよ合点はいかないのだ。これはとりあえずここでやめてこれ以上の被害を防ぐことが急務かもしれない。しかし、なんだこれは。はてな、使い勝手の悪さが凄くないか。

 

追記:

いまようやく所定の手続きの踏むための手順が分かり、過ちのセルフスターを除去した。なんと手がかかる奴よ、はてなスター

書き初め 仁義を“切る”のは何故だろう

せっかく構えてみたこのブログが第一投稿以来沙汰やみだが、その間、他のブログ(ブログスポットやノート)全て絶賛放置プレイ中。いまこれですら、電話で書いている。電話で書くということは、何を書いているのか分からない、または推敲ができないということを承知で、投稿することに重きを置く、という覚悟のもとに、ということだ。(註釈:およそひと月半の後、いま電話ではなくコンピュータで編集を加えています。)

ちなみに、いま網野本の一つを読んでいて、著者十八番の古代からある所有と流通にまつわる風習の中に働いている思想、そのさわりに差し掛かる際、何らかの価値を発行、流通させる際に一旦世俗を超えて神に返す(無縁に帰す)、という意味で、切る(小切手や手形を)という表現を使ったものと考えられる、という下りがあり、やはりあの仁義を切る、いう行為は話者のを存在、自己を通貨として発行する、というその論そのもので、だから他でもなく、切った、のだろうなあ、という気がして来る。

しかし、原始贈与型経済から貨幣経済へ発展する際の発想こそがそれそのもの、物其々の持ち主によって異なる価値を普遍な物差しを以て計りなおすには、というゲマインシャフトからゲゼルシャフト移行の際に必要だった基準が、所有の払拭、無縁に返すことだったのはやはり、時も地域も異なりつつも、その普遍的事実を実証しているように思える。