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はいーのハイのハイ

書き初め 仁義を“切る”のは何故だろう

せっかく構えてみたこのブログが第一投稿以来沙汰やみだが、その間、他のブログ(ブログスポットやノート)全て絶賛放置プレイ中。いまこれですら、電話で書いている。電話で書くということは、何を書いているのか分からない、または推敲ができないということを承知で、投稿することに重きを置く、という覚悟のもとに、ということだ。(註釈:およそひと月半の後、いま電話ではなくコンピュータで編集を加えています。)

ちなみに、いま網野本の一つを読んでいて、著者十八番の古代からある所有と流通にまつわる風習の中に働いている思想、そのさわりに差し掛かる際、何らかの価値を発行、流通させる際に一旦世俗を超えて神に返す(無縁に帰す)、という意味で、切る(小切手や手形を)という表現を使ったものと考えられる、という下りがあり、やはりあの仁義を切る、いう行為は話者のを存在、自己を通貨として発行する、というその論そのもので、だから他でもなく、切った、のだろうなあ、という気がして来る。

しかし、原始贈与型経済から貨幣経済へ発展する際の発想こそがそれそのもの、物其々の持ち主によって異なる価値を普遍な物差しを以て計りなおすには、というゲマインシャフトからゲゼルシャフト移行の際に必要だった基準が、所有の払拭、無縁に返すことだったのはやはり、時も地域も異なりつつも、その普遍的事実を実証しているように思える。